西郷隆盛が住んでいた場所
2018-05-14
西郷隆盛(菊池源吾)の二度目の潜居地(小浜七二番地)
薩摩藩は、安政の大獄(一八五八年)で、幕府から命を狙われていた西郷を僧「月照」とともに錦江湾に入水自殺と幕府に報告し、遠島の地・奄美大島に「菊池源吾」と変名して、身を隠させた。
菊池源吾(西郷)は、安政(1859年)一月一二日にに、砂糖積船福徳丸で龍郷湾阿丹崎湊に上陸した。当時の阿丹崎湊には、黒糖積出港として、役人が詰めていた「番所」があり、黒糖の貯蔵庫かあったこの地点の地名を「番屋」と読んでいた。
初めの潜居地は阿丹崎湊から、北方向約二キロほどの地点にある、龍郷集落内にある、美玉新行(鹿児島城下出身の流人)の空き家を二ヶ月間借りて住んでいた。
二度目の潜居地は、龍郷集落から小山一つを隔てた、小浜(現在地点・小浜七二番地)の郷士格龍家の本家であり、当時は龍佐民為行が相続人として管理していた。
この龍家には、家人(やんちゅ)と呼ばれる使用人が数十人いて、最初は、下女、コムルメに西郷(菊池源吾)の身のまわりの世話をさせていた。
◯於戸間金(おとまかね)との結婚
龍家では、西郷が奄美在番の藩の役人に対して、厳しい黒糖年貢の取り立ての緩和を働きかけた事などにより、西郷に対する尊敬と心服の度が高まっていたました。そこで、西郷に不自由を感じさせないようにという心遣いで、於戸間金(後の愛加那)という龍家次男家の娘との結婚を勧めた。
西郷は、最初は、自分は島にいつまで滞在するか分からないという理由で遠慮していた。しかし、結局は、龍家の親切を受け入れ、安政(1861年)1月には、菊次郎(後の台湾宜蘭庁長や第二代京都市長)が誕生した。この龍家の本拠地である小浜には、二年八ヶ月の潜居地ということになる。
三度目の潜居地は、現在地の小浜から約1キロ北方に所在する、龍郷集落内の「白間」区域(寛政年間に龍家の所在地)に、愛加那と菊次郎のため、新居を構え移り住んだ。新築に当たっては、台風の強く当たらない場所を定め、地主に宅地の譲渡を申し出て、扶持米の玄米三俵と酒二樽を渡して登記代としたと伝えられている。
村人が普請の手伝いをして、文久元年(1861年)十一月に茅葺きの家が完成しました。この西郷隆盛潜居の家は、明治四十三年(1910年)に龍丑熊により再建されたものが現存しており、昭和30年に鹿児島県文化財「西郷南洲謫居跡」として指定されている。
西郷隆盛没年明治十年行年四九歳
『最高文献』
『龍郷誌・歴史編』(龍郷町)
『詳説西郷隆盛年譜』(山田尚二 財団法人 西郷南洲顕彰会)
『西郷菊次郎と台湾・・・父西郷隆盛の「敬天愛人」を生かした生涯』
(佐野幸夫著 南日本新聞開発センター)
龍郷町教育委員会
※一部加筆